風の街
episode 01
これは、昨日の自分に言っても信じないだろう。
銃口はまっすぐわたしの頭に向けられていた。シカゴらしい吹雪の夜だった。中古のトヨタ車にはみぞれ混じりの横風が吹き付けている。
「兄さん、どういうつもり?」
助手席で銃を構えるシュウに訊いた。2月14日、わたしの30回目の誕生日だった。5つ違いの兄、シュウとはウルフギャングでステーキを食べたばかりだった。
「お前、トミーを売っただろ」
答える余裕はなかった。両手はハンドルを握ったまま、足はブレーキに置いたまま、視線だけ右へと動かす。22口径のコルトが見えた。このサイズの弾丸ならわたしを貫通することはない。せいぜい頭蓋骨をぶち破って、脳みそをぐちゃぐちゃにするくらいだ。
「お別れだ、ナナ」
シュウは冷たく言った。
耳をつんざく破裂音と同時に、後頭部に衝撃が走った。一度、二度撃たれた。あまりの痛みで息ができない。
瞬時に母のことを思った。安物のミンクコートのシルエットが浮かぶ。ダウンタウンでストリッパーをしていたアル中の女だ。わたしが10歳のときにミシガン・アベニュー橋から落ちて、野良犬みたいに死んだ。いい思い出なんてない。今わの際にあの女を思い出すなんて胸くそが悪かった。
数秒経って、あれ、と思った。
死ぬ用意はできていたのに意識が消えない。とっさに両手で頭を押さえ、震えるふりをした。そのまま左側に倒れ込む。目を閉じて動かないでいると、助手席のドアが開き、閉まる音がした。シュウの足音が遠ざかっていく。
重い頭を上げると、路地を曲がって大通りにでていくシュウの後ろ姿が見えた。両手を見つめる。べったりと血がついていた。殴られ続けているように頭は痛いが意識だけははっきりあった。
兄はしくじったのだ。昔から脇の甘い男だった。
シャネルのツイードジャケットをまさぐって、ポケットから携帯電話を取り出す。金糸の織り込まれたクリーム色の生地に赤黒い染みができた。
オルランドに電話をすると、彼は15分で駆け付けた。普段彼が親知らずを抜いている手術台で、わたしの後頭部から弾丸を2つ取り出して縫合した。
包帯でぐるぐる巻きになった頭から、血は流れ続けていた。オルランドの寝室のベッドに運ばれてからも、白いシルクシャツには新しい染みが増える一方だった。耳鳴りがして、声が聞こえにくい。オルランドは白髪頭をわたしの耳もとに近づけて言った。
「大丈夫か?」
思わず笑い声が漏れた。大丈夫なわけがない。
「誰にやられた?」
小さく口を動かして、シュウ、と答えるとオルランドの顔面は蒼白になった。オルランドはシュウのおむつを替えたし、わたしのミルクを買いに走った男だ。気弱な何でも屋の老人は、ファミリーの子供の世話を一手に引き受けていた。
シュウとわたしの祖父は日系二世ながら、イタリア系移民のファミリーで幹部をつとめていた。といっても、それも10年以上前の話だ。祖父は梅毒で死んだし、父はめった刺しのうえ絞殺された。マフィアで絞殺とは「軽蔑」を意味する。裏切り者にふさわしい最期だ。
「わたしがトミーを売ったと思ったらしい」
「売ったのか?」
「売ってない」
「ならどうして」
「FBIにローラという捜査官がいる。40過ぎの優秀な女だよ。彼女がトミーの尻尾をつかんだらしい。トミーはわたしが売ったと勘違いした。で、兄さんに命じてわたしを始末しようとしたんだ」
早口で説明をした。時間はあまりない。答えている時間も惜しかった。
手を頭の包帯に回すと、患部を確かめた。後頭部を横に長く、傷口が走っている。横から弾を撃ったために、頭蓋骨に沿って表皮をえぐっただけで済んだのだろう。
祖父の口癖は「ルーレットは回してみなきゃ分からない」だった。シュウのルーレットは外れ、わたしのルーレットは当たったというわけだ。
「間抜けな兄さん」
わたしの声はかすれていた。オルランドは悲しそうに目を伏せた。
布団を払いのけ、立ち上がろうとする。頭がじんじんと痛んだ。片手で後頭部を押さえる。目元にしわを寄せて涙が出るのをこらえた。
「どこに行くんだ?」
「兄さんを探さないと」
「復讐するのか?」
オルランドの灰色の瞳がじっとわたしを見つめた。
「そんなわけないでしょ。助けに行くんだ」
嘘ではなかった。オルランドを悲しませたくはない。けれども嘘をつくほど馬鹿ではなかった。
嘘をつくなというのが祖父の代からの家訓だ。父はそれに背いて死んだ。「誠実な商売」というのが、祖父のモットーだった。祖父は誠実に、良質なドラッグを売りさばいていたわけだ。
「マフィアに狙われた人間は必ず死ぬ。ここ数年でも1000人以上殺されている。それなのに兄さんはしくじった。わたしが生きていると知ったら、トミーは兄さんを始末するだろう。トミーに見つかる前に兄さんを捕まえて、FBIに引き渡すよ」
「それは、裏切りにならないか?」
オルランドの骨ばった右手がわたしの肩に触れた。その手は震えていた。
「仕方がないよ。兄さんとわたしが生き残るためには、それしかないんだから」
周囲を見渡し、ベッドサイドテーブルに置かれた自分の携帯電話を手に取った。
部屋の隅のライティングデスクに近寄り、引き出しを開ける。時代遅れの38口径、ルビー・エクストラが眠っていた。シリンダーを外して見ると、実弾は6発、きちんと装填されている。
「借りてくよ」
戸口に向かって歩き出した。横になっているより動いているほうがよかった。自然と頭の痛みは忘れられた。
「これも持っていきなさい」
後ろからオルランドの声がした。振り返ると、スコットランド・ウールの分厚いチェスターコートが飛んできた。
「ここは風の街だ。そんな格好じゃ風邪ひくよ」
オルランドの目尻に深いしわが刻まれていた。6フィート超えだったはずの男が妙に小さく見えた。それもそうだ。今日は彼の77歳の誕生日でもあった。
「ハッピーバースデー、オルランド」
オルランドは答えなかった。椅子に腰かけ、ぼんやりとわたしを見ていた。誰に対してというわけでもなく、ぼそりと漏らした。
「ちょっと前までチビだったのにな」
<続く>
AUTHOR
新川帆立 (しんかわ ほたて)
2020 年『元彼の遺言状』で第 19 回『このミステリーがすごい!』大賞の大賞を受賞。
最新作は 2021 年 10 月 6 日発売の『倒産続きの彼女』。東大卒の元弁護士であり元プロ雀士という異色の経歴を持つ新進気鋭の小説家。