飾り窓
episode 05
「お前らが通報したせいで、俺はあの後大変だったんだよ。警察に捕まって、何日も拘束され、留置所では変なやつからリンチにも遭ったし、解放されたと思った挙げ句に罰金まで払わされてな」
そう言いながら、トラ猫の首の後ろを片手で掴んで持ち上げた。
あ……、と思った瞬間、男はその手を川の上に大きく伸ばした。トラ猫が男の手からぶらんと揺れた。
「や、やめて!」
わたしは声を上げた。
トラ猫は足も不自由なのに、川に落とされたら溺れてしまう。
「ふふふ」
男は意地悪に唇を歪ませると、トラ猫を勢いよく川へ投げた。
スローモーションのようにトラ猫が空中を飛んだと思うと、月明かりと街灯に照らされた水面に、鈍い音とともに沈んでいった。同時に大きな波紋が広がった。
わたしは「ひっ」と声にならない声を飲み込んだ。
数秒後、その波紋の真ん中からトラ猫が浮かび上がった。手脚を動かし、苦しそうにもがいている。
助けなきゃ。
わたしは川に飛び込んだ。後ろで「マノン!」とイザベラの声がしたような気がしたが、暗い水の中、懸命にトラ猫に向かって泳いでいった。服を着ていたので思うように動けない。必死に息継ぎをしながら、照らされた月明かりに助けられて進み、なんとかトラ猫を手に掴むことができた。
良かった。
満身の力で暴れるトラ猫を水面に持ち上げた。しかし、重さでどうにも上手く進めない。しばらくもがいていると、誰かの腕が自分を触った。
助けだ。助かった!
トラ猫をその腕に託した。一気に体中から力が抜けていく。
水面に浮かんでいたサコッシュのひまわりが目の前にあった。
わたしの意識は遠くなり、溶けるように水の中へと沈んでいった。
目の前にある、きらめく運河の水面。澄んだ空を見上げるように咲く花々たち。
ハウスボートの小窓から顔を覗かせたのは、髪を掻き上げたイザベラだ。気持ちよさそうに秋の風を受けている。薄い唇を少し噛んだ。
「マノン、猫ちゃんに会いに行こう」
イザベラは着ていたキャミソールを脱ぎ捨てた。ベッド脇の椅子に掛かったままのTシャツを、細い体にくぐらせる。
男が買ってくれたという、ゴッホのひまわりが描かれた、イザベラには大きすぎるTシャツを着て、ショートパンツにビーチサンダルを履いている。
今日は気温も低いし、風が冷たいから体を冷やしそうだ。長袖を着た方がいいんじゃないかと、わたしは思うのだけど、当たり前のようにTシャツを着てバッグを持つイザベラに声をかけることはできない。
だが、そのままハウスボートを出ようとしたイザベラが、一瞬何かに気付いたように戻ってきた。部屋の奥にあるトランクの中に手を伸ばす。押し込んであるジージャンを引っ張り出して手に持った。
よかった。上着があれば大丈夫。
――マノン、備えあれば憂いなし、って言うでしょ。
と、イザベラはわたしによく言ったもの。
あの夜以来、イザベラの優しい声をわたしは毎日聞くことができる。隠れてこそこそしなくても、イザベラはいつもわたしの前にいる。
彼女はジージャンをひっさげて、キャットボートに収容されたトラ猫に会いに行く。
捨て猫が収容されているそこに、ときどきボランティアにも行くし、たまには寄付もする。
男がちっともお金を取りにこなくなったので、貯まったお金を元手に、街のブティックの片隅に自分の店を開く予定だ。
「あのアコーディオンの女の子、かわいそうだったね」
キャットボートで誰かがイザベラに話しかけた。
「そうね。でも、マノンはいつも側にいる。大切な味方。ずっと一緒に生きていくわ」
イザベラは空を仰いで、胸のひまわりに手をあてた。
目をしばつかせたトラ猫が、ミュアーと声を上げながらこちらを見た。
見えない手で金色の背中を撫でながら、わたしは微笑んだ。
AUTHOR
西尾潤 (にしお じゅん)
2019年『愚か者の身分』で第二回大藪春彦新人賞を受賞し小説家デビュー。現役でヘアメイク・スタイリストとしても活躍する新進気鋭の小説家。大阪府出身。