飾り窓
episode 01
これは昨日の自分に言っても信じないだろう。
目の前に、あの男が現れた。
暗闇に浮かぶ赤いライトと街灯が、男の巻き毛を映す。見間違える訳なんてない。イザベラが何度も話していた男だからだ。
夜の飾り窓での仕事前に、イザベラはよくわたしのアコーディオンを聴きにきてくれた。
古い教会の近くに、赤いライトが浮かぶ地域は世界最古の職業が並ぶ場所で、通称 “飾り窓” と呼ばれている。
川岸から見える赤い窓の中には、レースのランジェリーや、ボンテージに身を包んだ女性たちがそれぞれの格好で客を待つ。
わたしは下手くそなアコーディオンを弾いて小銭を稼いでいた。生きる術はそれしかなかった。
いつも運河沿いの、橋の脇に並ぶ植え込みに腰を掛ける。そこは自転車が停められていない、平和な場所だった。
覚えた2曲を永遠にリピートするのだが、道を行き交う観光客に多くのバリエーションはどうせ不要だ。子供のわたしが、一生懸命アコーディオンを弾けば、目の前に置いた小さなクッキー缶に、土産物を買い物した後の釣り銭を、たまには気前のいい札を投げ入れてくれる。
――わたしも田舎に、あなたと同じ年頃の妹がいるのよ。だからほっとけないわ。
出会って最初の頃に、イザベラがそう言ってわたしに小さなクッキー缶をくれた。ひいきの客がもってきたやつだけとね、と彼女は言った。
その日から花柄のかわいらしい缶はわたしの宝物になった。
ある午後だった。またおなじみの一曲を弾き終えたときに、ひとりの見知らぬ男の客が話しかけてきた。
仲良しの、とろい動きのトラ猫が側にいたので、わたしはそちらに気を取られていた。男がやってきたときに、彼女を足蹴にしたのを見逃さなかったからだ。
男が手の中に隠し持っているものは、すぐにアルコールだとわかった。
「あんたも大きくなったら、飾り窓に入るんじゃないのかい。いい女になりそうだもんな。そのときは教えてよ。ひひひ」
と、いやらしく言ってきた。
わたしは、額面通りにその言葉を受け取って、
「そうねおじさん。じゃあそのときはもっとたくさん払ってください」
紙幣ではなく、カラカラと安い音を立てて放り込まれた硬貨を見ながら言った。
「なんだとガキ! 生意気な口利きやがって」
男はわたしの冷たい言い方に腹を立てたようだった。
「この辺でそんな仕事できないようにしてやるぞ、こら」
昼間からビールを煽り、子供相手に汚い言葉を繰り出す男を、観光客は遠巻きに見つめていた。
男は持っていたビール缶を地面に置き、わたしの方へ近づいてきた。何をされるかわからなかったがわたしは動かなかった。
人々の目がたくさんある場所だったから大丈夫だと思ったし、逃げる方がおかしい気がしたからだ。
酒臭い息を吐く顔を、もう少しでくっつくのではないかというところまで近づけ、がさついた指先でわたしの襟首を掴んだ。
ミュアー、と知ってか知らずか猫の鳴き声が響いた。
そのとき、カシャリとシャッター音が聞こえた。
見るとイザベラが、携帯電話を片手にこっちに近づいてきていた。
男は慌てて掴んだ襟首から手を離し、わたしから体を一歩離した。
「おっさん、いい加減にしなよ。大きな声を出してさ」
イザベラの言葉に、男は赤かった顔を一層赤くして震えていた。
その頃には、野次馬の数が曲を終えた頃より倍以上になっていて、平和な橋のたもとは人だかりでいっぱいになっていた。
引っ込みのつかない酔っ払いに向けられる非難の視線に、男の顔はこわばっていた。
イザベラは携帯電話をポケットに突っ込むと、男に顔をぐいと近づけた。しなやかな指先で優しく男の頭と頬をなで回すと、一転、それまでとは違う満面の笑みを突然浮かべた。
「ね。お兄さん、子供相手に興奮しないでよ。興奮するなら、わたしに、し、て」
男の耳元に薄い唇を近づけ、優しくセクシーな声でそう言った。
見ると、もう片方の手は男の股間を下から撫で上げていた。
「うっ……。す、すまない」
怒りに興奮していた男の顔は、すっかりニヤ下がってしまい、その場を緊迫で見つめていた野次馬たちも急にその緊張感を解き、ニヤニヤと笑った。
イザベラは男から手を離したあと、すぐにわたしのもとにやってきた。
「さ、マノン行くよ」
前に置いていたクッキー缶を手に取ると、イザベラはまだ残っていた野次馬たちに、チップを入れるように催促した。しまったという顔つきで硬貨を入れる者や、笑いながら気前よく紙幣を突っ込んでくれた者もいた。
<続く>
AUTHOR
西尾潤 (にしお じゅん)
2019年『愚か者の身分』で第二回大藪春彦新人賞を受賞し小説家デビュー。現役でヘアメイク・スタイリストとしても活躍する新進気鋭の小説家。大阪府出身。