家電売り場のシュッツガイスト
episode 02
「それじゃ、今日から掃除機担当に回ってもらうことになるわ。大丈夫ね?」
「ええ、ビアンカ。突っ込んだ質問をされちゃうと困るところがあるけど、各社の新モデルの性能については一通り覚えました」
濃いムスク系の香りにむせそうになりながら、新しいボスの質問に答えた。先ほど、フロアごとの朝礼で皆には紹介してもらったばかりだけれど、朝礼のあと私だけ呼び止められたのだ。
赤毛に翡翠色の瞳を持つビアンカには、この店の緑の制服がよく似合っている。同僚はほかに五名。PC売り場の半分の人数だ。ミュンヘンの中心部に位置するこの店舗は、交通の便がいい代わりに敷地面積はやや狭く、郊外の大型店と比べて品揃えが豊富とは言いがたい。もちろんその分ラインナップにはこだわっているが、売り場の規模によって人数が削減されるのは仕方のないことだ。
「初日そうそう悪いけれど、今日は会議で一日ずっと店を空けることになっているの。何かわからないことがあればガーランに尋ねて」
「ありがとうございます」
慌ただしく控え室を出ていこうとした彼女が、思い出したように振り返って笑みを浮かべた。
「家電売り場へようこそ。皆、歓迎しているわ。希望のフロアじゃないかもしれないけれど、少なくともここは誰を接客しようと自由よ。もっともここには――いえ、いずれ知るでしょう。それじゃ幸運を」
ビアンカと入れ替わりに、今度はガーランがやってきた。
「おはようございます。今日からよろしくお願いします」
まだ二十代前半だろうか。日陰で育ったひまわりのようなひょろりとした体つきで、ゲルマン人の中では比較的小柄なほうだ。見るからに柔和で、これでは値下げ交渉で押し切られたり、偏屈な客に絡まれたりしやしないかと、勝手に母性が湧いてしまう。
「大丈夫なの?」
「はい?」
「あ、いえ。家電売り場のお客様って細かそうだから。私、大丈夫かしらと思って」
苦しいごまかしを述べると、相手は予想外にかっと瞳を見開いた。
「もしかして、売り場のお客様に関して何か嫌な噂でも耳にしたの?」
「え、何?」
強すぎる反応が、にわかに不安を掻き立てる。
「ねえ、ビアンカも気になることを言って出ていったんだけれど、このフロア、何か問題でもあるわけ?」
朝礼で感じた家電チームの第一印象は、とても風通しが良さそうだな、というポジティブなものだった。ということは、チームの人間関係以外の何かに根ざした問題があるということ? あるいは風通しがよさそうだと思ったのは私の勘違いで、内実は泥沼を地でいくどろどろのドラマが展開されているとか?
私の表情は意識していたより雄弁だったようだ。ガーランは眉尻を下げ、早くも後退する気満々の額の生え際をなで上げた。
「いいかい、意識しすぎないで欲しいんだけれど、実はこのフロアにはけっこう面倒なお客様がいてね。僕たちの間で押し付け合いになってるんだ」
「押し付け合い?」
「そう。彼女が現れたら、みんなさっとほかの仕事を見つけて方々に散っていく」
相手は女性らしい。彼女について語るガーランの顔つきはごく深刻だった。
「ってことは、その人は常連ってこと? 買わないくせに涼んだり暖を取る目的で居座ったり、あとは暇つぶしにやって来て店員に絡んでくるような、よくいるタチの悪いタイプ?」
「そういう輩なら、僕達だって手の打ちようはあるさ。でも彼女は、そういうんじゃないんだ」
「それじゃ何なの?」
ガーランは、なぜか左右を見回したあと小さな声でつづける。
「マニアだよ、家電マニア。製品知識がものすごくて、店員がついていけない局面があると噛みついてくる。僕らの不勉強をなじる時の言葉の切れ味と言ったら、ツヴィリングのナイフだって敵わないほどだよ。言ってみれば、プロを超えた素人ってところかな」
ガーランのただならぬ表情と深刻な声音のせいか、気づけば喉がからからに乾いて舌の付け根が口蓋の奥にひっついていた。
こちらの様子を察したのか、ガーランが気遣うように間を取ってからつづきの言葉を繰り出す。
「ちなみに彼女、今は掃除機の買い替えを検討してる。でも安心して。もし今日もやってきたら僕が引き受けるから、君はすぐにどこか別の場所へ逃げてくれていいんだ。彼女、新人に挑むのも大好きだから」
「挑むって、ゲームセンターでもあるまいし」
「そう、まさに彼女にとっては、僕達を打ち負かすのが目的のゲームなんだよ」
「まさか」
頭を左右に振りながら、私の脳裏には、これまでPC売り場で出会ってきた猛者達の顔が次から次へと思い浮かんでいた。
囚われた人々、スペックの鬼、底なし沼の住人。
彼らを指す言葉はいくつもあるだろうけれど、一言で表せば、オタク、あるいはマニアだ。寝ても覚めてもPCのことしか考えられず、仮にも売り場に立つスタッフなら自分より深い知識を持っていて当然だと決め込んでいる人々。同時に、店のスタッフ風情が、自分より深遠な知識を持っているなど許せないという自家撞着を抱えている人々。
私は彼らをよく知っている。なぜなら、量販店で働き出すまで、私は彼らだったのだから。
「かばってくれなくていいわ」
「え?」
昆虫の手足に似たガーランの細い腕がぴたりと止まる。
「彼女が新人に挑みがちだということは、つまり彼女の接客って、このフロアに配属された新人が受ける洗礼のようなものなんでしょう? だったら逃げても仕方がないわ。私、その彼女の接客を受けて立つ」
「――勇気があるね。でも、くれぐれも無理はしないで」
最初こそ戸惑って宣言を聞いていたものの、最後にはあからさまにほっとした顔で頷くと、ガーランはフロアへと出ていった。
「勇気なんてない、ただのやけくそよ」
つぶやきが、控え室の真ん中でぽつんと響いた。
<続く>
AUTHOR
成田名璃子 (なりた なりこ)
2011年『やまびこのいる窓』で第18回電撃小説大賞(メディアワークス文庫賞)を受賞し翌年に受賞作を改題した『月だけが、私のしていることを見おろしていた。』で小説家デビュー。2016年には『ベンチウォーマーズ』で第12回酒飲み書店員大賞を受賞。青森県出身。