短編小説集





家電売り場のシュッツガイスト
episode 01
これは、昨日の自分に言っても信じないだろう。

彼女の接客を終えたあとに、こんな気分になるなんて。

細い脚が遠ざかっていく。
私はこの国に来て初めて、日本流の深い礼を以てフロアを去る彼女を送り出した。




大学時代、ドイツに留学し、当時ベルリンで大学生だった夫と知り合った。

私達は恋に落ち、私が留学期間を終えて帰国してからも、互いの勤勉な国民性を発揮して規則正しいやりとりを欠かさず、倹約に励んで両国を行き来しては逢瀬をかさねた。やがて私の大学卒業を待って、かねてからの計画通りに国際結婚し、ファミリープラン通りにその一年後に子供をもうけた。子供は産み分けの希望通りの息子で、あらかじめ決めていたようにステファンと名付けた。
ところがステファンが八歳になる頃、私達夫婦は、初めて予想外の出来事に見舞われた。夫がマレーシア人女性と電撃的に恋に落ち、一年の別居期間を経て離婚するに至ったのだ。

かくしてステファンは九歳の少年になり、私は異国でシングルマザー三ヶ月目を迎えた。

「ママ、パンもシリアルも両方食べるわけ? 太るよ?」

呆れ顔で朝食のカロリー過多を指摘するステファンの声はまだ高いけれど、こぼれ落ちそうだった頬はいつの間にかすっきりとし、顎の線はシャープだ。肩をすくめて再びシリアルを口に運び始める腕はそれでもまだまだ華奢で、大人からの万全の保護が必要なことを物語っている。ブラウンの髪は緩くうねり、朝日に照らされた瞳は金に近い薄茶。彼よりも彼の母親に似た容姿に、正直に言って安堵してしまう。元夫と同じ黒髪に青い瞳だったら、息子を見る度に彼を思い出しただろうから。

「母国語以外の言語を話すだけで脳が激しくカロリーを消費するのよ」

「はいはい、ご自由に。そういえば、今日から新しいフロアで働くんだよね?」

「そ。今日からは掃除機担当」

「頑張って。今度の上司はいい人なんでしょ?」

「そうみたい。ツイてたわ」

笑顔で答えたものの、本当は気が重くて仕方がなかった。

ドイツにも家電量販店があり、初めて訪れた日本人なら、フロア内があまりにも国内のそれと似通っていることに驚くはずだ。
一階にはスマートフォンやタブレット、二階にはモバイルやデスクトップPC、アクセサリ機器が併売されており、三階には黒物家電――テレビやオーディオ機器が並ぶ。そして四階が、今度私が異動になる白物家電――冷蔵庫や洗濯機などのいわゆる家電製品売り場である。

結婚五年目を迎えた頃、この大型家電チェーンに正社員として勤めはじめた。

日本にいた時から趣味でPCのジャンクパーツを集め、自前のパソコンを組み立てては母親や妹を心配させていた私だけれど、海を越えた家電量販店のPC売り場でその趣味がようやく日の目を見たのである。私は水を得た魚のようにPC売り場をすいすいと動き回り、商品を売りに売った。接客中に何人かの秋葉原好きなドイツ人に話しかけられ、ジャンクPC仲間もできた。彼らにも売りまくった。
気づけば、配属半年で私の成績はフロアナンバーワンとなった。最初の何年かはフロア長のグナもそんな私を評価してくれていたと思う。つい先月、私が彼の顧客を意図せずに奪ってしまうまでは。

顧客を奪ったといっても、ただ単にフロア長が不在の折りに、ミュンヘンの有力者の息子を接客しただけだ。幸か不幸か彼はジャンクPC愛好者、つまり私と同じ星の人間だった。
以来、彼が毎回私を指名するようになってフロア長は太筋の顧客を失い、私はPC売り場の席を失うことになった。
この九月に辞令が出て、家電売り場へと配属替えになったのである。
家電売り場のフロア長は女性で、あとから聞いたことだが、彼女もまたシングルマザーだということだった。

ようやく離婚が正式に認められたばかりのこのタイミングで、慣れない環境への異動はかなり堪える。今の私には、変化に耐えられる心の力などもう残っていない。私は私の絞りかすで、息子がいなければ、自分の涙の塩気でナメクジのように溶けてしまいかねない湿った何かなのだ。

それでも毎日、出勤時間はやってくる。
食器を洗い、洗濯物を干し、身支度を整えて出勤する。皮肉にも、ここ数年の主婦業で染みついた習慣に支えられて、今朝も家を出た。

<続く>
AUTHOR
成田名璃子 (なりた なりこ)

2011年『やまびこのいる窓』で第18回電撃小説大賞(メディアワークス文庫賞)を受賞し翌年に受賞作を改題した『月だけが、私のしていることを見おろしていた。』で小説家デビュー。2016年には『ベンチウォーマーズ』で第12回酒飲み書店員大賞を受賞。青森県出身。