赤い大地、あるいは火星人の帰還
episode 05
ベンの遺体が見つかったという知らせがもたらされたのは、皆が寝静まった深夜のことだった。
私は例によって眠れずに、自分のデスクでPCを開いていた。
歯の治療痕からベンと特定された遺体は、洪水に押し流された車の中から見つかったという。避難しようとして、間に合わなかったのだろうか。本部からのメールには、通り一遍のお悔やみの言葉が並んでいた。
その上で、可能であれば残りのミッションを完遂し、予定通りの日程で帰還してもらいたいとの要望が書き連ねられている。勝手なものだと苦笑した。
メール1本で夫が死んだと伝えられて、はいそうですかと納得できるはずもない。ベンが見つかったのなら、たとえ遺体であろうとも会いに行きたかった。彼がまだこの世に形を留めているうちに、伝えておきたいことがある。
私はレポートエディタを立ち上げて、洪水発生以後のコロニー内の人間模様を詳細に書き記していった。閉鎖空間に於ける人の脆さ、危ういバランス、ストレス環境が対立に拍車をかけ、人を愛するより憎むことが容易であること。
健康な体と専門知識を持ち、心理検査や精神鑑定をパスしてきた我々でさえこうなのだから、一般の移住者が心身の健康を保ち続けるのは極めて困難と思われること。犯罪のハードルが低い火星では、ちょっとしたトラブルが殺人にまで発展しかねないこと。
夢中で書き連ねているうちに、10インチピザサイズの窓の向こう側ではゆっくりと夜の気配が去ってゆく。私は最後に、こうつけ加えた。
『人類はいずれ、火星で自活するための技術的な問題をすべてクリアすることができるだろう。しかしここに永続的な拠点を築くには、人類自身がもう1段階進化する必要がある。我々には、圧倒的に誠実さが不足している』
この報告書が、上層部の目に触れることはないかもしれない。それでも私はメールに添付し、送信した。本部の担当者の手元に届くのは、20分後だ。
PCの電源を落とし、立ち上がる。他のクルーが起きてくる前にと、1つしかない出入り口のハッチに向かった。
宇宙服も着ず生身のまま、ロックを解除し扉を外に跳ね上げる。見渡すかぎりなにもない、赤茶けた大地が目の前に広がっている。
私はなにも迷わずに、その一歩を踏み出した。
冷たい風が頬を撫でる。11ヶ月ぶりの、自然の風だ。酸素が薄いと感じるのは、ここが海抜8200フィートの山の尾根だからである。
私は実にあっさりと、地球に帰還していた。
我々が参加していたのは、火星に居住することを想定した1年間のシミュレーション実験である。ハワイ島のマウナロア火山に建設されたドーム型の疑似体験施設に隔離され、火星移住者として過ごす人間に、どのような心理的影響が出るのかを調査するのが目的だった。
通信にはわざと20分のタイムラグが出るよう設定され、コロニーの外で活動するときには宇宙服の着用が義務づけられた。私がミミズを育てていたのも、火星の土に似せて作られた摸擬土である。
スニーカーでしっかりと大地を踏みしめて、巨大なソーラーパネルを備えたコロニーから離れてゆく。夜が明けたばかりの空は嘘のように青く、致死的なレベルで宇宙放射線が降り注ぐこともない。
大気中に素顔をさらし、深く息を吸い込むと、涙が止めどなくあふれ出てきた。
ただいま、ベン。帰ってきたわ。
普段着のままさまよい歩く私の姿は、頭上を無数に飛び交う衛星のいずれかが捉えていることだろう。
あてどなく視線を巡らせて、空を見上げたまま私は微笑んだ。
AUTHOR
坂井希久子 (さかい きくこ)
2008年『虫のいどころ』で第88回オール讀物新人賞を受賞。2009年『コイカツ-恋活-』で小説家デビュー。2017年には『ほかほか蕗ご飯 居酒屋ぜんや』で第1回高田郁賞、第6回歴史時代作家クラブ新人賞と数々の受賞歴を持つ。官能小説家・エッセイストと多彩な側面とバラエティに富んだ作風を持つ異色の小説家。和歌山県出身。