赤い大地、あるいは火星人の帰還
episode 03
ベンが見つからなくても、私は表向きは冷静に、日々のミッションをこなしていた。だが食が細り、ほとんど眠れなくなっていた。
ミアを亡くしたころに頼った睡眠補助剤は、ここにはない。その手の薬剤を必要とする者は選考過程ではじかれているのだから、当然だった。
こんなことになるならもっと早くに、ベンと向き合っていればよかった。魂の奥にまで染みこんだ愛おしさと悲しみで以て、ミアのことを語り合える唯一の相手だったのに。
地球上に溢れる水が、またもや私の大切な家族を奪ってゆく。このままではプロジェクトを終えて帰還しても、私は一人ぼっちだ。それは火星に取り残されてしまった孤独と、どう違うのだろう。
貴重なプライベートスペースである自室で横になっていると、そんなとりとめのないことばかりを考えた。折り畳み式のベッドを広げればいっぱいになってしまうほど狭い部屋は、まるでコールドスリープ用のカプセルのようだった。
たとえ充分な量の酸素と水、そして食料があったとしても、人はそれだけでは生きてゆけない。陳腐な言い回しになってしまうが、人を生かすのはやはり愛だ。愛を与えられなければ餓(かつ)え、満足に持ち合わせているつもりでも、日々の雑事に摺り下ろされて目減りしてゆく。
ごめんなさい、ベン。私には、あなたに愛を与える余裕がなかった。あなたも苦しんでいたはずなのに、私は自分の痛みにばかり敏感で、世界一の不幸者のように振る舞っていた。
愛してると、もう伝えられないかもしれないなんて。
彼が見つからないのなら、私はもうずっと、火星に閉じ込められていてもよかった。
「このままじゃ、マイの健康が心配だ。本部には、プロジェクトの変更か中止を打診するべきだと思う」
だが私の思惑とは裏腹に、ニックがそんなことを言いだした。
洪水発生から、3日目の夜のことだ。私は相変わらず小鳥がついばむ程度にしか食べられず、ニックの診断によると、貧血と低血糖を引き起こしているらしかった。
夕飯の片づけを終え、食堂と兼用のミーティングスペースに6人全員が集った。ニックの提案に、真っ先に噛みついたのはカーラだった。
「冗談でしょう。私の祖母が亡くなったときは、少しもそんな話にならなかったじゃない」
カーラの祖母は、火星生活がはじまってから3ヶ月目に天寿をまっとうしていた。もちろん最期を看取ることはできなかったし、葬儀にも出られなかった。
「私にできたことといえば、追悼メッセージを録音して送ることくらい。それでもしょうがないと思ってた。だってここは火星なんだもの。みんな、家族の死に目に会えない覚悟で来ているはずでしょ?」
「もちろんだ」と、頷いたのはイーサンだった。彼に惚れているリンダと、日和見のダニーも同意した。
彼らの視線を集めながら、ニックがゆっくりと首を振る。
「あのときとは状況が違う。カーラのグランマは寿命だったが、今回は大規模災害だ。しかも生死不明ときている。医師の資格を持つ者として、ここでできるメンタルケアは不充分と言わざるを得ない」
「私の悲しみを、過小評価しないで!」
カーラがテーブルを両手で叩き、立ち上がった。
「そうじゃない、そうじゃないよ、カーラ」
宥めようと、ニックが焦る。そんな彼に向かって、イーサンが出し抜けに人差し指を突きつけた。
「うるせぇ、このコミュニスト」
「なんだって?」
ニックの頬に、赤みが走る。対照的にイーサンの頬には、嘲るような笑みが浮かんでいた。
「だってそうだろう。貴重な食料の分配を、性別や体格差に考慮せず均等にすると決めたのはお前だ。お蔭で俺は体重が20パウンドも落ちたが、満足か? みんな仲良く横並び、平等がお好きなんだろ?」
「違う。僕はただ、医師として――」
「そうかい、なら肩入れはよそうぜ先生。あのレベルのハリケーンなら年にいくつも発生して、世界中の都市に打撃を与えているんだ。気候変動によって、地球は間もなく80億の人口を養えなくなる。だからこその火星移住計画だろう。俺たちの肩には人類の未来がかかってるんだ。そのアジア女の事情より、使命のほうが遙かに大きい」
「黙れ、君こそ元軍人のレイシストじゃないか!」
「なんだと!」
一瞬の出来事だった。ニックが椅子を蹴倒して立ち上がり、それより早くイーサンがテーブルに飛び乗った。気づけばニックは頬に拳を入れられて、仰向けに転がっていた。
リンダの白々しい悲鳴が、寝不足のこめかみに突き刺さる。私はニックを助け起こそうと駆け寄って、イーサンに「おい」と睨まれた。
「アンタはどういうつもりなんだ。この先生に、プロジェクトを中止してくれと泣きついたのか?」
あらぬ誤解だった。私はまっすぐに、イーサンの目を見返した。
「そんなことは、頼んでいない」
ニックが愕然として、私を凝視するのが分かった。庇おうとした相手に差し伸べた手を振り払われたのだから、無理もない。だけど、大きなお世話だった。
イーサンは満足そうに頷いて、テーブルからひらりと飛び下りた。
「そうかい。ならあと25日、よろしくな。ご主人のことは、心から同情する」
そう言い残し、それぞれの個室が並ぶ2階へと引き揚げてゆく。
リンダがすぐその後を追い、カーラは私の肩に手を置いてから、ダニーは私とニックの顔色を窺うようにして、やはり自室へと向かった。
ニックは椅子を支えにして、私の手を借りずに立った。私たちは互いに目を合わさず、言葉を交わすこともしなかった。それでも彼がこのチームでの主導権を失ったことはたしかだった。
<続く>
AUTHOR
坂井希久子 (さかい きくこ)
2008年『虫のいどころ』で第88回オール讀物新人賞を受賞。2009年『コイカツ-恋活-』で小説家デビュー。2017年には『ほかほか蕗ご飯 居酒屋ぜんや』で第1回高田郁賞、第6回歴史時代作家クラブ新人賞と数々の受賞歴を持つ。官能小説家・エッセイストと多彩な側面とバラエティに富んだ作風を持つ異色の小説家。和歌山県出身。